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パチンコの歴史

■パチンコの歴史
 欧米諸国から日本に流れ着いた、様々なゲーム機のいくつかは、アレンジを加えられてパチンコとして進化してきました。
 では、このパチンコの生い立ちについてご存じの方はどれくらいいらっしゃるのでしょうか。パチンコはいつごろ生まれ、どのように広まっていき、今のような巨大産業に発展していったのかをご説明いたします。

(1)
大正10年、アメリカから船員たちが、パチンコの原型となる遊技機を5台運んできました。大きさは、巾2尺8寸8分、高さ5尺7寸、奥行1尺、レール1寸6分、釘は2寸、玉は8分の木玉で野球式でした。それを日本で改造したものがパチンコの原型となったのです。
(2)
大正9年に、シカゴから運ばれてきた機会を、大阪鶴橋の富貴家とOM商会が改良、今のパチンコの原型を作り出したといわれています。玉を弾く音にちなんでパチパチと通称されていたが、その後入賞口に絵を書いたものを製作して売り出し、これが好評を受けて流行した。
(3)
東京の渡辺忠次郎という人が、アメリカで機械を見てきて、日本で製作したとのこと。この機械を田中和一さんから3台分けてもらい、時おり同氏と一緒に旅回りをし、野球式の点数ゲームで球が9個封じられていて、1回2銭の遊びとした。
(4)
昭和5年、アメリカからパチンコ台2台をおもちゃとして持ち帰った人が、宝塚温泉と大阪天王寺公演に置いたのが、関西初の登場。これが大人気を集めているのを見た小林健二郎が、パチンコ2台を製作し、同年秋、海水浴場で開業した。


●パチンコの歴史
 パチンコが誕生してから現在の巨大産業に発展するまでに、どのような発展をしていったのでしょうか。パチンコの歴史についてご紹介します。
年号
歴史
大正15年
宝塚新温泉内の屋内遊技場に玉遊び機(パチンコ)が設置されていた。
昭和3年
アメリカから持ち帰ったパチンコ台を宝塚温泉と大阪天王寺公演に置いたのが関西初登場。
昭和6年
自動球遊器の露天が各地に出店する。
昭和7年
大阪府警察部の「遊技場取り締まり標準」を管下に通達し、一銭パチンコが禁止となり、近畿北陸地域のパチンコが姿を消す。
昭和8年
東京浅草浅草寺公園で玉遊び機が人気となり、露天営業が増加する。
昭和9年
禁止措置を受けた一銭パチンコはメダル(模擬硬貨)を入れてメダルが出るゲームとして再出発。
昭和10年
「一銭パチンコ禁止」で、姿を消していたパチンコが、メダルを出して商品に換える仕組みで、営業再開し全国各地でブームとなる。
昭和12年
遊技場の新規開業禁止が通達される。
昭和14年
戦時下の風俗営業取り締まり方針に基づき、大阪府は管内遊技場の営業時間を午後11時以降禁止の指示を出す。
昭和15年
大阪府警、管内の遊技場の営業時間を正午から午後11時までに規制する。
昭和17年
高知県警察部、管下の遊技場に廃業を指示し、全業者を廃業させる。
昭和18年
企業整備令に基づきパチンコ遊技場などの転廃業が相次ぐ。
昭和21年
風俗営業等取締法の制定及び都道府県条例の制定
昭和23年
正村竹一氏考案の、画期的な正村ゲージが登場。
昭和24年
同伴者なき18歳未満の入場が禁止される。
昭和27年
菊山徳治氏考案の連発機が出現し、全国の遊技場数が3万軒を超え、第一期黄金時代を迎える。
昭和29年
都考案委員会を皮切りに全国で「連発式禁止令」を決定。
警察庁が器械基準を通達し、単発式などを含む一式、二式、三式の3種類の機械のみ許可がおりる。
昭和30年
単発機への切り換えを実施。客足は激減し、転廃業者が続出。大不況時代へ突入。
連発式禁止に伴いオール20も禁止され、転廃業者が更に続出。軒数は1万軒以下に激減。パチンコに代わり、スマートボールが流行する。
昭和32年
ジンミット、コミックゲームなどパチンコ機に役モノが続々登場し、沈黙を続けていた業界もようやく上昇気運に乗り始める。
昭和37年
大型店が増え、全国で台数制限基準が問題化。
昭和41年
役ものなどで機械基準が緩和され、チューリップの全盛時代へ突入する。
昭和44年
警察庁が遊技機の新要件を発表し、連発式が15年ぶりに復活。
昭和47年
警察庁が電動式遊技機の認可を通達。
昭和57年
警察庁の認定を受けていない機械について、新要件機へ入れ替えるよう警察庁が各都道府県警へ通達。
昭和60年
警察庁から回胴式遊技機の改造行為に警告
昭和61年
回胴式遊技機の一斉封印を実施。
平成2年
第三者発行型パチンコ用プリペイドカードが市場に登場
平成4年
パチンコCR機が登場。
平成9年
新内規CR機が登場。
という風に、パチンコが発展するまでには、様々な弊害や発展がありました。